<昭和2年>
6月 :大日本拳闘会制定日本選手権大会開催
優勝者
フライ級=柏村 五郎、バンタム級=原 靖
フェザー級=原 靖、ジュニア・ライト級=田中 禎之助
J・ウエルター級=日吉 勝商、ウエルター級=野口 進
<昭和3年>
:岡本 不二、臼田金太郎、アムステルダム五輪に出場。岡本は1回戦敗退、臼田
は準々決勝で敗退
11月 :第2回日本選手権大会開催(大日拳主催)
<昭和5年>
3月 :大日拳、フィリピンから5選手招く
4月 :大日拳、第3回日本選手権大会開催
5月 :第4回日本選手権大会開催
8月29日 :小林信夫選手が甲子園リングでボビー・ウィルスに9RKO負けし意識不明になり、
3日後の9月1日死亡。日本ボクシング史上初のリング禍。
<昭和6年>
2月11日:大日拳、帝拳、日倶、東洋拳が中心になって全日本プロ拳闘協会設立。
<昭和7年>
4月 3日:ピストン・堀口が、アマ試合デビュー。1RKO勝ち。
<昭和8年>
4月 7日:日本で最初で最後の20回戦が行われる。また、この試合は賞金を勝者が全額受け
取るウィナーテーク・オール試合ということでも話題となる。
5月15日:元世界チャンピオン、エミール・ブラドネル一行来日。日仏対抗戦始まる。
7月 3日:早稲田大学戸塚球場特設リングで、ピストン・堀口、ブラドネルと引き分ける。
11月16日:元世界フライ級チャンピオンのパンチョ・ビラら来日。
11月 :25日、26日にわたって全日本選手権が開催される。
<昭和10年>
:1月〜2月にかけて東洋選手権を開催。
2月18日:堀口の東洋選手権不出場に対して、日倶が堀口を除名し、日本タイトルを剥奪。
4月25日:外国人同士のヘビー級の試合が国技館で開催される。
9月 1日:堀口、岡本不二をマネージャーに独立宣言。
<昭和11年>
2月 :堀口、ハワイ遠征。B・D・グスマンに勝ち東洋チャンピオンとなって帰国。
11月 :ジョー・イーグル来日。
<昭和12年>
1月26日:堀口、イーグルに敗れ、連勝が47で止まる。この試合の判定について、荻野貞行
レフェリーの採点表に不備があったとして山口組ともめる。
5月 1日:BG(ボクシング・ガゼットの略)ジムが銀座にオープン。同時に毎週「銀座土曜
の拳闘」を開催。
5月26日:堀口、イーグルに勝って東洋タイトル奪回。この試合、イーグルはオーバー・ウエ
イトで試合前に失格。
<昭和13年>
1月 :ピストン・堀口発狂説流れる。
2月 :笹崎、カムバック戦に勝つ。
<昭和14年>
5月29日:ピストン・堀口対玄海男が国技館で対戦し、玄が判定勝ちを収める。
<昭和15年>
1月 7日:堀口、玄に雪辱する。
10月10日:堀口、アマ出身の朴竜辰にまさかの判定負け。
<昭和16年>
2月 :笹崎、「ボクシング・ガゼット」誌の誌上で堀口に対し、「開かぬ城門、発展を遮
断す」と挑戦状を発表
3月 :今度は堀口が「デマを排す」という反論を発表。
5月14日:袂を分かっていた渡辺勇次郎、岡本不二の歴史的手打ち式が行われ、堀口vs笹崎
戦の日取りが決定。(試合は5月28日と決定)
5月28日:「世紀の一戦」と言われた堀口vs笹崎戦が国技館で行われ、堀口が6RTKOで
勝つ。
12月20日:大阪府がボクシング興行の禁止令を告示
<昭和17年>
7月 3日:戦時体制に基づき、チャンピオン制度に代り、敢闘旗争奪戦が行われる。最初の試
合は、ピストン・堀口対金剛勇の一戦。試合は、金剛が堀口に判定勝ち。
10月 4日:全日本拳闘競技連盟と改称していたアマ連が「拳闘祭」を開催。
しかし、これを最後に活動を停止する。
<昭和18年>
5月29日:東京拳闘連合会が大日本拳闘協会と改称し、興行のすべてを執り行うことに。第1
回興行は国技館で、「大東亜戦争国債」をファイトマネーに「国防献金試合」を開
催する。
11月26日:白井義男が、海山順奉を1R1分3秒KOで下してデビュー。
<昭和19年>
3月11日:大日本拳闘協会が解散声明を出す。
3月28日:日比谷公会堂で行われた国防献金試合が戦前のラスト・ファイトに。以降、ボクシ
ングの試合は行われず。
<昭和20年>
12月 5日:西宮球場で在日朝鮮人連盟大阪本部が主催して、戦後初のボクシング試合が行われ
る。
12月29日:国技館で、ジョー・イーグルのマッチメイクによる試合が行われる。この試合には、
堀口宏、堀口基治の堀口兄弟が出場している。