
<昭和30年> 1月31日:共立講堂で東西新人王の対抗戦を兼ねて第1回全日本新人王決定戦が行われる。 3月22日:名古屋で赤沼明由にKO負けした横井義春が、試合後に死亡。 5月30日:白井、ペレスにリターンマッチを挑むも5RKOで敗れる。白井は帰宅後引退
を表明。 6月10日:極東ジムとTBSが組んで「チャンピオン・スカウト」が始まる。この番組は
678回放映された。 7月 8日:世界フェザー級チャンピオン、サンデー・サドラーがノンタイトル戦で東洋フ
ェザー級チャンピオン金子繁治と対戦。6R2分1秒TKOで金子を下す。 8月25日:東洋ライト級チャンピオンの秋山政司が、弱冠17歳の沢田二郎に4RKOで
敗れタイトルを失う。秋山はリング上で引退を発表した。 12月 1日:マニラで行われた東洋ボクシング連盟の総会で、国内の試合の採点方法に4点
法(別名加点法)を採用することを決める。日本では翌年1月1日よりそれま
での10点法から改正された。 <昭和31年> 3月 6日:浅草公会堂の試合を最後にJBCに無届けのいわゆる草試合が禁止となる。 6月28日:「日本ボクシングの父」と言われた渡辺勇次郎が肝臓ガンのため死去。 10月27日:第1回のプロ・テストが行われ、以後プロにデビュー選手は必ず受験が義務付
けられる。 <昭和32年> 3月18日:初代コミッショナー田辺宗英氏死去。2代目コミッショナーに真鍋八千代氏が
就任した。 5月 8日:初代日本ヘビー級王座決定戦が行われ、片岡昇がチャンピオンになるも、以降
挑戦者が現れず、このタイトルは消滅する。 5月17日:プロモーター協会、マネージャー・クラブ、オーナー・クラブが合同して日本
ボクシング協会を復活。初代会長に本田明帝拳会長が就任。 8月11日:当時世界フライ級2位にランクされていた三迫仁志を、無名の矢尾板貞雄が破
る。以降、矢尾板は人気選手になる。 11月15日:東京で行われた東洋ボクシング連盟の総会で、8カウント制、3ノックダウン
制の廃止が決まる。 11月20日:第3回東洋チャンピオン・カーニバルが東京で開催される。 12月15日:東日本新人王決定戦で敗れた永田耕造のマネージャー、望月武が、林レフェリ
ーに暴行。後に望月がライセンスを持っていないことが判明。結局、永田が所
属していた野口ジムの野口進オーナーが「暴力行為は遺憾」と陳謝、コミッシ
ョンも「望月マネージャーの野口ジムへの出入りを遠慮願う」という要望だけ
ということで決着。 <昭和33年> 1月 7日:矢尾板貞雄が、日本フライ級チャンピオン岩本正治に勝って新チャンピオンに
なる。しかし、試合前に契約問題で一悶着。 1月24日:戦後初めて韓国からミドル級チャンピオン康世哲などが来日する。 3月27日:メルボルン五輪に出場した米倉健志がプロ転向を表明。 4月30日:三迫仁志が引退を表明する。 6月10日:旧講道館を改装して後楽園ジムが開場。 <昭和34年> 1月 4日:米倉健志が福本篤人を破りプロ入り5戦目で日本チャンピオンになる。 1月16日:矢尾板貞雄が、ノンタイトル戦で無敗の世界フライ級チャンピオン、パスカル
・ペレスに判定勝ちを収める。 3月 2日:フジテレビが正式に毎週のボクシング放送を開始。10月にはNET(現テレ
ビ・朝日)も開始している。 8月10日:米倉健志が世界フライ級チャンピオン、パスカル・ペレスに挑戦したが判定負
け。 11月 5日:矢尾板貞雄がパスカル・ペレスに挑戦したが、13RKO負けこの時試合を中
継したフジテレビの視聴率は92.5%だったと言われている。 12月 :中外拳の梅野林マネージャーがレフェリーに暴行。JBCは1年間の業務停止
処分に。 12月 3日:バンコクで行われた東洋ボクシング連盟の総会で、4階級のシニア・クラス(
現在のジュニア・クラス)の新設が決まった他、不評を買っていた4点法によ
る採点方法を、NBAが勧める5点法に改正すること決めた。 <昭和35年> 3月21日:日大講堂で行われた東洋ミドル級タイトルマッチで海津文雄が1R48秒でラ
ッシュ・メーヨンにKO勝ちの最短記録を作る 5月23日:米倉健志が世界バンタム級チャンピオン、ジョー・ベセラに挑戦するも2−1
の判定で敗れる。 6月 :ローマ五輪で田辺清が、フライ級で銅メダルを獲得。 6月14日:AOジム期待の強打者高橋修が、就寝中の不慮の事故で死亡。 8月29日:高山一夫が世界フェザー級チャンピオン、デビー・ムーアに挑戦したが判定負
け。 9月 4日:NBA総会でリターンマッチの禁止が決議される。 <昭和36年> 4月27日:野口恭が福本篤人を破り日本フライ級チャンピオンになる。野口の父は、ライ
オンの愛称で知られ、戦前ウエルター級チャンピオンだった野口進で、日本ボ
クシング史上初の親子チャンピオンとなった。 6月 :川上林成、高橋美徳が相次いでプロ転向を表明。 6月27日:関光徳が世界フライ級チャンピオン、ポーン・キングピッチに挑戦したが判定
負け。 11月13日:高山一夫が再び、世界フェザー級チャンピオン、デビー・ムーアに挑戦するも
判定負け。 <昭和37年> 1月 7日:リキパレスが開場。ボクシングの初興行が行われる。 1月15日:後楽園ホールが開場。 2月24日:沼田武が会田昭太郎に負けて、23連敗の記録を作る。 4月14日:全日本ボクシング協会が正式に発足。会長に本田明帝拳会長、副会長に岡本不
二、小高伊和夫が就任。 5月30日:野口恭が世界フライ級チャンピオン、ポーン・キングピッチに挑戦したが判定
負け。 6月27日:10月にポーン・キングピッチに挑戦することが決まっていた矢尾板貞雄が突
如引退を発表。後に原因が中村会長との対立と判明する。 7月22日:川上林成がパーセンテージ興行を行う。試合は川上がサマート・ソンデンに9
RKO負け。かつ、川上には試合放棄でJBCから3ヶ月の試合出場停止処分
が下されるおまけつき。 8月20日:NBAがWBAと改称。 10月10日:ファイティング・原田がポーン・キングピッチを11RKOで下し、世界フラ
イ級チャンピオンを奪取する。 10月29日:青木勝利が米倉健志に判定勝ちして東洋バンタム級チャンピオンになる。敗れ
た米倉はこの一戦を最後に引退する。 11月 7日:高山一夫がノンタイトル戦で世界ライト級チャンピオン、カルロス・オルチス
と対戦するが判定負け。 12月 3日:小坂照男が世界ライト級チャンピオン、カルロス・オルチスに挑戦したが5R
KO負け。 12月28日:斎藤清作(後のタレントのたこ八郎)が野口恭に勝って日本フライ級チャンピ
オンになる。 <昭和38年> 1月12日:バンコクで行われた世界フライ級タイトルマッチでファイティング・原田は、
ポーン・キングピッチに敗れ初防衛に失敗する。 4月 4日:青木勝利が世界バンタム級チャンピオン、エデル・ジョフレに挑戦するも3R
KOで敗れる。 7月 4日:川上林成の世界挑戦交渉打ち切りが発表される。これは川上がバート・ソモジ
オにKO負けしたため。 9月18日:海老原博幸が1RKOでポーン・キングピッチを下し、世界フライ級チャンピ
オンとなる。 <昭和39年> 1月 1日:前年のWBA総会の決定に従い、リングのロープがそれまでの3本から4本に
なる。 1月23日:バンコクで行われた世界フライ級タイトルマッチで海老原博幸は、ポーン・キ
ングピッチに判定負けで初防衛ならず。 3月 1日:関光徳が世界フェザー級チャンピオン、シュガー・ラモスに挑戦したが、6R
KO負け。 7月 6日:JBCが日本でもジュニア制を実施すると発表。 7月27日:小坂照男が世界ジュニア・ライト級チャンピオン、フラッシュ・エロルデに挑
戦12RTKO負け。しかし、レフェリーのストップが早すぎると会場が混乱。 10月23日:桜井孝雄が東京オリンピックのバンタム級決勝で鄭申朝に勝って史上初の金メ
ダル獲得。 10月29日:ファイティング・原田が青木勝利に3RKO勝ちする。 11月 6日:ポーン・キングピッチ対高山勝義の世界フライ級タイトルマッチが流れる。 12月 :高山勝義と31日に試合を予定していた斎藤勝男が、「減量に自信がない」と
いう理由で突然失踪する騒ぎを起こす。試合は予定通り行われ、高山が判定勝
ちを収める。